「なぜAIを使わないの?」
「だって信用できませんもん」
某月某日、20代前半の若者とぼくとの会話です。念のためことわっておきますが、当社の、ではありません。知人を介して知り合った別の会社に所属する若者です。
「ほぉ、いいじゃないか」
内心、そう思ったのです。しかし、口には出しませんでした。
まだ敗戦から十数年しか経ってないころに生まれ、未来という言葉が希望の代名詞だった時代に少年期をすごす、つまり、昭和に生まれ昭和で育ち、人生を七十年近く生きてきた身からすると、今どきの若者らしからぬその言は、「ほぉ、その心意気やよし」と感心しないでもありません。文明の利器にたよらず拒絶するかたくなさは、どこかたのもしいような感じすら受けます。
ではなぜ、それを口に出さなかったのか?
「ちがうな、ザンネンだけど」
そう思う心の方が勝ったからです。
たしかに生成AIというヤツは(ここで言うAIは汎用生成AIのことです)、その活用方法しだいで毒にもなれば薬にもなる代物です。そしてそれを「薬」にするのが得意なのは、「若い人」だと思われがちです。しかし、近ごろのぼくは、それはちょっとチガウのではないかと感じ始めています。
ざっくりと言い切ってしまえば現実は逆。経験の少ない若者は使い方がヘタで、それとは反対に経験豊富な年寄りの方が上手に使えてしまう(もちろん、先端テクノロジーに対するアレルギーがないというのは大前提ですよ、そうでない人は論外)。
また変なことを言い出したよ、このオヤジは、と笑うそこのアナタ。では、ぼくがなぜそう考えるかを、お話しましょう。
AIと付き合う。コツやポイントは数ありますが、その要諦はつまるところ「コミュニケーション力」、そして「語彙力」だと、ぼくは思います。
Aiに適切な指示を出し(いわゆるプロンプト)、ほしい答えを引き出す、あるいは、AIとの対話のなかから、自分にとって適切な答えを導き出すには、自分が何を考え、何を問題と認識しているかを言語化する力、つまり、手を変え品を変え伝えるスキルが欠かせません。その引き出しを多く持ち合わせているかどうかが、AI活用の肝なのです。
いや、とはいえ、と前置きして真逆のことを書きますが、本当の意味で上手なのはチトちがうのかもしれません。
「自分にはコミュニケーション力も語彙力もない」
そう自覚するからこそ、それを補うためにAIを使う。
「うまく説明できないから、どうすればよいか整理してくれ」
「ボキャブラリーが少ないから、よい表現を教えてくれ」
そういった自分自身のウィークポイントを逆手にとって、AIを相手に「壁打ち」をする。そこからAIの知見を引き出す。じつはそれこそが、もっとも賢いAIの使い方なのだろうなとぼくは思います。
とまあ、それはさておき、話を元に戻します。
一般論として、若者はデジタルに強い。したがって、新しいデジタルツールへの順応も早い。ですが、AIの答えが「使える」ものか「見当違い」なのか、その真贋を見きわめる知見が、彼らには不足しています。そこからの反応は、丸投げしてトンチンカンな結果を出しても平気の平左か、しらっとフェイクを垂れ流すAIを過度に恐れるか。彼が「使わない」をチョイスするのは、ホモ・サピエンスの矜持というよりも、後者の方なのかもしれません。
一方で、長年社会の波にもまれもまれて生きてきたオジさんオバさん(ジイさんバアさん?)はどうでしょう。
昭和、平成、令和...多くの修羅場...ぼくから見ればAIは、知識は超豊富だけれど実際の現場のことはまったく知らないシロート、いわば超カシコイ新入社員のようなものです。ただこの新人は、「超豊富どころか底の見えないほど有り余る知識」を持っています。ぼくなぞがエラそうなことをほざいても、三万回生まれ変わっても身につけることが出来得ないものです。しかし、それを使い物にできるかどうかは、オジさんオバさんジイさんバアさんの方にイニシアティブがあります。
「ここはニュアンスがちがうな」
「その切り口はおもしろいぞ」
これまでつちかってきた経験と、それによって生まれる勘、という引き出しを開けたり閉めたりしつつ、AIとの対話を繰り返すことによって、色々さまざまなものが生成されていくわけです。
なんてことを書いた日には
「エエ年して、あたらしいオモチャにはしゃいでるだけやんか」
などと笑われているのかもしれません。そうかもしれません。否定はしません。
それでも、近ごろのぼくは、仕事で使えば使うほど、そのおもしろさが増してきています。あまつさえ、自分が賢くなったような勘違いをしてしまうのも度々です。
肝は「知的な拡張」です。
自分の経験と脳みそだけでは、到底たどり着けなかっただろうアイデアの可能性を、AIは瞬時に広げてくれます。それは、自分の知見とかけ合わせるという人間くさいひと手間を経ることで、まったくちがった出力としてあらわれるのです。
その若者が「AIを信用できない」と遠ざける気持ち。それはとても大切なものです。疑いもなしにAIを使うことが、どれほど危険であるか、その例は枚挙にいとまがありません。その文脈では、「信用できない」という心持ちはまったくもって正しいことこの上ない。
しかし、「信用できない」は、「から」という順接で「使わない」につながるものではありません。いや、文法的には正しいのですが、望むべき態度としてはむしろ、「けど」という逆説で「使う」に結びつけるのが、今という時代に生きる土木技術者がとらなければいけないものでしょう。
若者たちはこれから、潤沢に存在する時間のなかで失敗を繰り返すでしょう。どう足掻いたところで、この老頭児には残された時間がそれほどありません。結局のところ、広大につづく未来という地平は、若い人たちのためにあるのです。
「わからない」「から」「やらない」
ではなく
「わからない」「けど」「やる」
あるいは
「わからない」「から」「やる」
こうでなくっちゃね。健闘を祈ります。でわ。
(みやうち)
