さて「とべら」です。

なぜ当地では流れ盤破壊を引き起こした岩盤すべり面のことを「とべら」と呼ぶのか。その語源はどこにあるのか。
かねてよりぼんやりと抱いていた疑問を解消するべく、ちょっと考えてみました。
まず一般的な名詞としての「とべら」が何を意味するのか、ここから入りたいと思います。
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[庭木図鑑植木ペディア]より
トベラ
・岩手県以南の太平洋岸、新潟県以南の日本海岸、四国、九州及び沖縄に分布するトベラ科トベラ属の常緑低木。庭園や公園などに使われることも多いが、自生地は日当たりのよい海岸沿いの斜面など。海辺の地域では防砂林や防風林として、また枝葉をヒイラギ代わりに節分や大晦日の厄除けに使うことでも知られる。
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丈夫で強いので道路や工場の緑化に使われることも多い、それがトベラという樹木です。
でも、これでは糸口すらつかめませんね。
そこでぼくが着目したのがその形状と語感です。
まずカタチ。
あらためて先日の崩れた箇所を見てみましょう。

露出した平滑なすべり面(とべら)と、脆く砕けた周辺の泥岩が確認できます。
この「平滑な面」こそが「とべら」という言葉の由来の核心につながるのではないか、と考えました。
なぜか?
古来日本では、「薄く平らな板状の道具」の総称を「へら」と呼んできたからです。
調理器具、工具、文房具、裁縫道具などなど、その用例は数々あります。
まさしくこのカタチは「へら」なのではないか?
「薄く平らな板状の面」だから「へら」。そしてそれは「土や泥がすべった」ことによって「平らな面」となった。したがって、それは「土(ど)へら」と呼ばれるようになった。
しかしここでひとつ疑問が生じます。
ではなぜ「どへら」が「とべら」となったのか、です。
とはいえこれは、国語学的に容易に説明することができます。
連濁です。
2つの語が結びついて1つになるとき、後ろにつく側の頭の静音が濁音に変化することを連濁と呼びあらわします。手紙(てがみ)、日差し(ひざし)、戸棚(とだな)、人々(ひとびと)などなど。いくらでもその例が思いつきます。
この基本的原則には例外があります。「はる+かぜ」が「はるがぜで」はなく「はるかぜ」となったり、「おお+とかげ」が「おおどかげ」ではなく「おおとかげ」になったりするように、うしろの単語に濁音がある場合には連濁が起きません(ライマンの法則)。
いずれにしても、語頭が濁音となるのを嫌い、清音を好むという日本語の特徴があらわれています。濁音の連続を忌避すると表現してもよいでしょう。
日本人の濁音嫌いについて、金田一春彦は『日本語 新版上』で、こう記しています。
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たちまちに色白のビハダになりますというのがあったが、聞いていて、肌がザラザラになりそうだと言った人があった。こんなことから、女子の名に濁音で始まるものはきわめて少なく、たとえばバラは美しい花ということになっておるが、バラ子という名前の女の子はまだ聞いたことがない。
日本人は、この、濁音に対する感覚がかなり固定している。濁音が本来きたない音というように思いがちであるが、科学的にはそういうことは証明されないそうで、英語では b ではじまる言葉に best とか beautihul とか良い意味のものが多く、女子の名前などでも b ではじまるものがいくつでもある。日本人が濁音を嫌うのも語頭にくる場合だけで、「影」とか「風」とか「かど」とか、語頭以外の位置に来たものには悪い感じをもたない。これは、濁音ではじまる言葉は古くから方言にのみ見られ、それを卑しむ気持ちが作用したものと想定される。
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つまり、日本語用法的には、「土へら」は「どへら」でも「どべら」でもなく「とべら」と呼びあらわすのが正統なのです。
こうやって考えていくと、「とべら」は、「土(岩盤)がヘラのように剥がれた面」という形態と機能を正確に伝えているような気がしてきました。
単なる俗語ではなく、当地で山にかかわりながら働いてきた人々が、四万十帯の崩壊様式を経験的体感的に理解し、その知恵を次世代に継承するために生み出された、地域固有の技術言語とさえ言えるのではないか。
そんなふうに思えてきました。
(大げさ?^^;)
と
ここでおじさんは
ないアタマを絞り、一生懸命考え、その結論にたどり着いたというのに、もっとシンプルなあることに気づいてしまうのですが
とりあえず今日のところは
「とべら=土へら説」の提唱と解説にとどめておきます。
さてそれは一体どのようなものなのか
お次がいつのことやらわかりませんが
とりあえず
乞うご期待!
(みやうち)